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韋カン

推定知名度0.32%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

韋瓘(いかん)は中唐の進士。字は茂弘(もこう)。万年県(現中華人民共和国(中共)陝西省西安市)の人、正卿(せいけい)の男で珩(こう)の弟、夏卿(かけい)の侄(おい)に当たる。生年は徳宗の貞元4年(基督教暦788年、下皆效此)と記録されるが実はその翌5年の生まれと推定され、憲宗の元和4年(809年)、21歳の時に状頭で進士に及第し、同8年以前にの幕職に、次いで同10年以前にの幕職になり、15年以前に入朝して(秩従八品上)を授けられたらしく、15年10月に右拾遺等と即位後の穆宗に対して酒色に溺れすぎていると諫奏している。そして恐らくは同年中に(秩従七品上)に改替されて史館修撰に充てられ、その後、倉部員外郎(戸部の判官、秩従六品上)、司勲郎中(吏部の判官、秩従五品上)を経て(秩正五品上)に昇るが、文宗の大和7年(833年)に(現中共広東省中西部)の長史(秩正六品下)に貶官された。莫休符(ばくきゅうふ)『』に拠れば、韋は門閥貴族の出自を恃んで顕臣の座を志向していたというので、恐らくはそうした性行から李徳裕と近しくなったようで、所謂牛李の党争では徳裕を領袖とする李党の一員に数えられ、『新唐書』に載せる伝に拠ると徳裕が宰相の座に就いて滅多に人と会わなくなってからも韋の訪問はこれを迎えその頼み事を聞く程であったという。なお、『新唐書』はその為に牛党(反徳裕派)の領袖に悪(にく)まれ、徳裕が宰相を罷免されると同時に貶官されたと記録するが、徳裕の拝相は大和7年2月、罷免されてに転出するのが翌8年10月なので、韋の謫官はその年紀に錯乱が無ければ徳裕の在任中であってその失脚とは別の理由にあった事になる。そこから韋の李党説を疑う説も出されるが、いづれにせよ李党の一員であった事は確かなようで、この当時に世に出たと考えられる後述『周秦行紀(しゅうしんこうき)』の真の撰者と考えられている。また、同書が謫官先を明州(現中共浙江省寧波市)とするのは同書の誤伝と考えられる一方で、或いは康州への謫官後に科が軽減されてより都に近い明州に除替された可能性もある。その後、武宗の即位によって開成5年(840年)に徳裕が再度入相すると韋も復朝されたらしく、会昌6年(846年)には楚州の刺史(秩正四品上)を拝命して御史中丞を兼帯し、宣宗の大中2年(848年)2月に(治所は現中共広西壮族自治区桂林市)に栄転するが、その間、長安では大中元年に徳裕が失脚しており、大中

過去の推移