藤原 顕雅(ふじわら の あきまさ、建永元年(1206年) - 弘安4年9月18日(1281年10月31日))は、鎌倉時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流、参議藤原親房の三男。母は法印成清の娘。正二位・参議。寛元4年(1246年)、後嵯峨上皇の院司として蓮華王院の損色の検分に当たる。建長7年(1255年)に従三位・治部卿に任じ、正元元年(1259年)には後鳥羽天皇陵への遣使も務めているが、文応元年(1260年)に参議を一旦罷免されるという経験もしている(同年中に還任)。弘安4年(1281年)に出家(法名は准心)し、同年76歳で没した。
藤原 顕雅(ふじわら の あきまさ、建永元年(1206年) - 弘安4年9月18日(1281年10月31日))は、鎌倉時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流、参議藤原親房の三男。母は法印成清の娘。正二位・参議。寛元4年(1246年)、後嵯峨上皇の院司として蓮華王院の損色の検分に当たる。建長7年(1255年)に従三位・治部卿に任じ、正元元年(1259年)には後鳥羽天皇陵への遣使も務めてい......