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薛調

推定知名度0.78%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

薛調(せつちょう、太和4年(基督教暦830年。下皆效此) - 咸通13年(872年))は晩唐の進士。河中宝鼎(ほうてい。現中華人民共和国山西省万栄県)の人。憲宗朝の御史大夫で河東郡公に封じられた苹(へい)の孫で婺州の刺史膺(よう)の男。宣宗の大中8年(854年)頃の進士登第と推定され、同期登第者である李瓚(りさん)(の男)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった瓚が「剣」と呼ばれたのに対して、調は姿貌が美しく性格も寛恕であった為に「生菩薩」と呼ばれたといい、その人柄から劉允章(りゅういんしょう)に好まれ、また、翰林学士となった際にはがその容姿を賞して懿宗に「駙馬(ふば)(の容姿)も調には及ばない」と言ったという(駙馬とは公主の婿)。官歴は詳らかでないが、懿宗の咸通元年(860年)5月当時ににして内供奉であった事、同11年(870年)に戸部員外郎(こぶいんがいろう)(戸部の判官)から駕部郎中(がぶろうちゅう)(兵部の判官)へ調されて更に翰林学士の承旨(しょうし)を充てられ、その翌12年には知制誥に至った事、翌々13年2月26日に43歳で暴卒して戸部侍郎を追贈された事が知られている。『無双伝』の著作があってその中に仮死の秘薬が登場するのでそうした事に関心があると考えられたものか、世間では鴆(ちん)に中(あた)ったものと噂されたというが、上記郭妃の感想も影響してその美貌を嫉んだ何者かに依って毒殺された疑いもある。

過去の推移