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織田敏信

推定知名度0.88%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

織田 敏信(おだ としのぶ、文正元年(1466年) - 永正14年1月26日(1517年2月16日?))は、戦国時代の武将。管領・斯波氏の家臣。法名は清巌、常清、常也、常巴。通称は左馬助、伊勢守、大和守。備後守尾張下四郡を治めた守護代の「織田大和守家」当主の清洲城主・織田大和守敏定の嫡男とされ、尾張上四群を治めた「織田伊勢守家」当主の岩倉城主・織田信安の父とされるが、しかし、出自についてははっきりせず、定かではない。文明17年(1485年)9月8日、室町時代の歌人である万里集九が江戸城に太田道灌を訪ねる中途、尾張春日井郡にある清洲城の織田敏信邸に立寄り、織田敏信の許で犬追物を見物して詩を作ったといわれる。延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父とされる織田敏定とともに尾張守護斯波義寛に従軍したという(延徳の乱)。また明応2年(1493年)、再び守護・斯波義寛に従い、織田敏信は上洛して京に滞在するなど各地で活躍したという(『蔭涼軒日録』)。没年について岩倉市の龍潭寺にある敏信の位牌には永正14年(1517年)1月26日没。戒名「龍潭寺殿清巌常世大居士」。『前野家文書』「武功夜話」では明応4年(1495年)、船田合戦で討死とも。後に娘は織田信長の父織田信秀の側室となったといわれる。

過去の推移