紀 陟(き ちょく、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の政治家。字は子上。揚州丹陽郡の人。父は紀亮。子は紀孚・紀瞻。三国志呉書「三嗣主伝」注が引く『呉録』などに記述がある。孫休の時代に中書郎の職にあり、謀反の罪に問われた孫皓の父孫和の取調べに当たった。この時、孫和に対し秘かに指示し堂々と弁明させたため、当時権力をもっていた孫峻に疎まれたという。父が尚書令であったとき中書令にまで出世したため、朝会において二人の間に屏風が置かれたという逸話がある。後に豫章太守となった。265年、当時の呉は孫皓へ代替わりしたばかりの時期で、交州を魏に奪われるなど弱体化していたため......
紀 陟(き ちょく、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の政治家。字は子上。揚州丹陽郡の人。父は紀亮。子は紀孚・紀瞻。三国志呉書「三嗣主伝」注が引く『呉録』などに記述がある。孫休の時代に中書郎の職にあり、謀反の罪に問われた孫皓の父孫和の取調べに当たった。この時、孫和に対し秘かに指示し堂々と弁明させたため、当時権力をもっていた孫峻に疎まれたという。父が尚書令であったとき中書令にまで出世......