理豊女王(りほうにょおう、寛文12年5月26日(1672年6月21日) - 延享2年5月12日(1745年6月11日))は、後西天皇の第十一皇女。母は典侍清閑寺共子。幼名は橿宮、追号は本覚院、法名は徳巌理豊。天和3年(1683年)宝鏡寺に入って理忠女王のもとで得度し、元禄2年(1689年)宝鏡寺22世門跡となり寺勢の興隆につとめ中興の祖ともされる。宝永4年(1707年)景愛寺住持となり紫衣を許された。絵を狩野周信に学び、また能書家であり各地に額字を揮毫している。墓所は 真如寺内の宝鏡寺宮陵にある。
理豊女王(りほうにょおう、寛文12年5月26日(1672年6月21日) - 延享2年5月12日(1745年6月11日))は、後西天皇の第十一皇女。母は典侍清閑寺共子。幼名は橿宮、追号は本覚院、法名は徳巌理豊。天和3年(1683年)宝鏡寺に入って理忠女王のもとで得度し、元禄2年(1689年)宝鏡寺22世門跡となり寺勢の興隆につとめ中興の祖ともされる。宝永4年(1707年)景愛寺住持......