浜田 経重(はまだ つねしげ、天文3年(1534年) - 慶長16年2月20日(1611年4月3日))は薩摩国島津氏家臣。別名は重門。通称は民部左衛門。法号は栄臨(永林とも)。浜田重好の三男。子は浜田重昌、娘(押川公近室)。一生の間に戦場に赴く事39度、上げた首級40余人、討ち捨て15、6人、敵地へ忍び入る事13度に及ぶという功臣であった。元々は村田経定の附衆中として功を為していたが、その武功の多さに感心した島津義久が召し出し直臣とした。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の際、その武功を聞いた秀吉は経重を自身の前に召しだして、金房兵衛尉政次作の......
浜田 経重(はまだ つねしげ、天文3年(1534年) - 慶長16年2月20日(1611年4月3日))は薩摩国島津氏家臣。別名は重門。通称は民部左衛門。法号は栄臨(永林とも)。浜田重好の三男。子は浜田重昌、娘(押川公近室)。一生の間に戦場に赴く事39度、上げた首級40余人、討ち捨て15、6人、敵地へ忍び入る事13度に及ぶという功臣であった。元々は村田経定の附衆中として功を為してい......