横山 忠篤(よこやま ただあつ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏の家臣。通称は佐藤次、弓内、但馬。別名は忠学。父は横山玄蕃允。上井覚兼の被官である横山玄蕃允の子として誕生、忠篤は島津義弘近侍の道具衆となり当初は佐藤次を名乗っていたが、義弘が日向国飯野城から栗野城へ居城を移した際に弓内の名を賜った(後年、但馬と改める)。義弘が更に帖佐(現・鹿児島県姶良市)へ移った際もこれに従う。文禄・慶長の役にも義弘の供として従軍し、朝鮮より帰った後は伏見に赴く義弘と博多で分かれ薩摩へ帰国、慶長4年(1599年)の庄内の乱に参戦し恒吉城攻め......
横山 忠篤(よこやま ただあつ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏の家臣。通称は佐藤次、弓内、但馬。別名は忠学。父は横山玄蕃允。上井覚兼の被官である横山玄蕃允の子として誕生、忠篤は島津義弘近侍の道具衆となり当初は佐藤次を名乗っていたが、義弘が日向国飯野城から栗野城へ居城を移した際に弓内の名を賜った(後年、但馬と改める)。義弘が更に帖佐(現・鹿児島県......