本多 忠民(ほんだ ただもと)は、幕末の大名、老中。三河岡崎藩主。忠勝系本多家宗家15代。讃岐高松藩主松平頼儀の四男。岡崎藩主本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日将軍徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、養忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。弘化3年(1846年)に寺社奉行となる。安政4年(1857年)に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務める。元治元年(1864年)に再任の台命が下ったときは一旦は固辞しているが、結局就任した。戊辰......
本多 忠民(ほんだ ただもと)は、幕末の大名、老中。三河岡崎藩主。忠勝系本多家宗家15代。讃岐高松藩主松平頼儀の四男。岡崎藩主本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日将軍徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、養忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。弘化3年(1846年)に寺社奉行となる。安政4年(1857年)に京都所司代に転任し、朝......