徳永 宗也(とくなが そうや)は、近世初頭における筑前国博多の惣司・町司・代官・「町の支配人」。別名次郎左衛門。豊臣政権期における動向は詳らかではないが、黒田長政の筑前入封後、博多の町政を担当、博多町奉行職設置まで続いたと考えられる。博多南縁の堀(房州堀)のうち、瓦町口より辻堂口までの構築(年不詳)、博多東縁の川土手普請(年不詳)、博多本願寺門徒の扱い(慶長7年(1602年))、博多商人の渡航朱印状獲得(慶長12年(1607年))、博多の公役・五人組制度(慶長13年(1608年))などについて長政と協議あるいは長政の指示を受けるなど、博多の町政に深くかかわ......
徳永 宗也(とくなが そうや)は、近世初頭における筑前国博多の惣司・町司・代官・「町の支配人」。別名次郎左衛門。豊臣政権期における動向は詳らかではないが、黒田長政の筑前入封後、博多の町政を担当、博多町奉行職設置まで続いたと考えられる。博多南縁の堀(房州堀)のうち、瓦町口より辻堂口までの構築(年不詳)、博多東縁の川土手普請(年不詳)、博多本願寺門徒の扱い(慶長7年(1602年))、......