幸西(こうさい、長寛元年(1163年) - 宝治元年4月14日(1247年5月20日))は、鎌倉時代前期の浄土宗の僧。房号は成覚房。一念義を説く中心人物。始めは延暦寺西塔の僧で鐘下房少輔と称して、天台を修学した。1198年(建久9年)に遁世して法然門下となった。元久元年(1204年)の「七箇条制誡」では15番目に署名をしている。また、建永元年(1206年)の興福寺が院に訴えた中にも、幸西の名が挙げられているなど、法然門下として活発な活動をした。結局、1207年(承元元年)法然が土佐に流罪となった建永の法難では阿波に流罪となった。しかし、慈円の預かりで流罪は......
幸西(こうさい、長寛元年(1163年) - 宝治元年4月14日(1247年5月20日))は、鎌倉時代前期の浄土宗の僧。房号は成覚房。一念義を説く中心人物。始めは延暦寺西塔の僧で鐘下房少輔と称して、天台を修学した。1198年(建久9年)に遁世して法然門下となった。元久元年(1204年)の「七箇条制誡」では15番目に署名をしている。また、建永元年(1206年)の興福寺が院に訴えた中に......