夜須 行宗(やす ゆきむね、生没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称は夜須七郎。一説によると名は「行家」とも。夜須氏は土佐国夜須荘を本拠とし、平治の乱で敗れた源義朝の遺児・希義が土佐に配流されてくると、これを援助して源家再興を計る。寿永元年(1182年)、挙兵の準備を整えて希義を迎えようとするが、平家方の蓮池家綱・平田俊遠がこれを察知。希義は殺害され、行宗は間一髪で海上に逃れる。蓮池らは偽りの甘言をもって投降を促すが、これが謀略であると見抜いた行宗は船を急がせ、そのまま鎌倉の源頼朝(希義の同母兄)の下に馳せ参じる。同年、頼朝の命により......
夜須 行宗(やす ゆきむね、生没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称は夜須七郎。一説によると名は「行家」とも。夜須氏は土佐国夜須荘を本拠とし、平治の乱で敗れた源義朝の遺児・希義が土佐に配流されてくると、これを援助して源家再興を計る。寿永元年(1182年)、挙兵の準備を整えて希義を迎えようとするが、平家方の蓮池家綱・平田俊遠がこれを察知。希義は殺害され、行宗は......