塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日 (旧暦)|5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日 (旧暦)|9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富須賀一|雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。子に伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたと推測される国学者塙忠宝がいる。
塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日 (旧暦)|5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日 (旧暦)|9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富須賀一|雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち......