厨川柵(くりやがわのさく)は、岩手県盛岡市の西にあったと言われている。俘囚と言われる豪族安倍氏が築いた勢力範囲最北の古代城柵である。衣川柵などと並び、安倍氏の重要拠点であった。「厨川」は、中世から近世には栗谷川、栗屋河とも記された。河川の合流点付近にあり、約10mの断崖絶壁の自然要塞上にあったとも伝えられる。所在地は広範囲にわたるとも見られ、明確ではない。現在の岩鷲山天昌寺(盛岡市天昌寺町)のある天昌寺台地が中核部として有力視されるが、農地化・宅地化による地形の変化、度重なる河川の流動により未確定である。昭和56年(1981)以後に推定地域の発掘調査が行わ......
厨川柵(くりやがわのさく)は、岩手県盛岡市の西にあったと言われている。俘囚と言われる豪族安倍氏が築いた勢力範囲最北の古代城柵である。衣川柵などと並び、安倍氏の重要拠点であった。「厨川」は、中世から近世には栗谷川、栗屋河とも記された。河川の合流点付近にあり、約10mの断崖絶壁の自然要塞上にあったとも伝えられる。所在地は広範囲にわたるとも見られ、明確ではない。現在の岩鷲山天昌寺(盛岡......