何 顒(か ぎょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。字は伯求。荊州南陽郡襄郷県の人。党錮を受けた党人の一人として、後漢書党錮列伝に立伝されている。若くして洛陽に遊学し、若年にも拘らず時の名士である郭泰・賈彪と誼を通じて、太学に名を顕した。友人の虞偉高が父の仇に報いずして病に倒れた時、何顒はその義に感じ入って代わりに報復してやり、その首を墓前に捧げたという逸話がある。陳蕃・李膺が宦官との争いに敗れて誅殺されると、何顒もまた彼らと親しかったことから宦官に陥れられることになった。何顒が姓名を変え汝南へ......
何 顒(か ぎょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。字は伯求。荊州南陽郡襄郷県の人。党錮を受けた党人の一人として、後漢書党錮列伝に立伝されている。若くして洛陽に遊学し、若年にも拘らず時の名士である郭泰・賈彪と誼を通じて、太学に名を顕した。友人の虞偉高が父の仇に報いずして病に倒れた時、何顒はその義に感じ入って代わりに報復してやり、その首を墓前に捧げ......