ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ

推定知名度0.28%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ヴィルヘルム・フランツ・カール・フォン・エスターライヒ(Wilhelm Franz Karl von Österreich, 1827年4月21日 ウィーン - 1894年7月29日 ヴァイカースドルフ、バーデン・バイ・ウィーン)は、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。ハプスブルク=ロートリンゲン家の分枝チェシン公国|テシェン公爵家の公子。ドイツ騎士団総長(在任1863年 - 1894年)。オーストリア皇帝フランツ2世|フランツ1世の弟で陸軍元帥のカール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公と、ナッサウ=ヴァイルブルク侯フリードリヒ・ヴィルヘルム (ナッサウ=ヴァイルブルク侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク|ヘンリエッテ・アレクサンドリーネの間の末息子として生まれた。1848年から1849年までの第1次イタリア独立戦争には志願兵として参加し、1859年に野戦砲兵監となった。1862年にはドイツ連邦軍マインツ要塞の司令官に就任し、1864年に砲兵総監および陸軍中将に昇進した。1863年、ドイツ騎士団の総長に就任する。1866年のケーニヒグレーツの戦いでは砲兵部隊を指揮し、負傷した。1867年、砲兵部の最高指揮官である「Feldzeugmeister」に昇進した。ヴィルヘルムはバーデン・バイ・ウィーンのヴァイカースドルフにあるテシェン公爵家の夏の居館ヴァイルブルク宮殿(Schloss Weilburg)や、兄アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン|アルブレヒトの建てた小規模な邸宅シュテックル(Stöckl)を住まいとした。1882年、ヴィルヘルムはヴァイルブルク宮殿の敷地の隣に、建築家フランツ・フォン・ノイマン男爵(Franz von Neumann)の設計になる自分専用の夏の居館を建設した。この居館は1886年より、ヴィルヘルムの資産の相続人に指名されていた甥のオイゲン・フォン・エスターライヒ|オイゲン大公と共同で使用することになった。居館はオイゲンの名前を採ってオイゲン・ヴィラと呼ばれた。ヴィルヘルムは1894年7月下旬、バーデン・バイ・ウィーンに敷設された自動車道を馬に乗って闊歩していたところ、自動車に驚いた馬に振り落とされて頭部に重傷を負い、オイゲン・ヴィラに運び込まれて数日後に亡くなった。

過去の推移