ヴィクトル・アルブレヒト・フォン・ラティボルの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

ヴィクトル・アルブレヒト・フォン・ラティボル

推定知名度0.25%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ヴィクトル(4世)・フォン・ラティボル・ウント・コルヴァイ(Viktor (IV.) Prinz von Ratibor und Corvey, 1916年2月12日 ラウデン(現在のポーランド領シロンスク県ルディ (シロンスク県)|ルディ) - 1939年9月18日 ポチェハ(ポーランド領ウッチ県))は、ドイツの旧諸侯ホーエンローエ家|ホーエンローエ=シリングスフュルスト家の一員で、シレジア|シュレージエンのラチブシュ公国|ラティボル公爵家の家督相続人。全名はヴィクトル・アルブレヒト・ヨハンネス・ヨーゼフ・ミヒャエル・マリア(Viktor Albrecht Johannes Josef Michael Maria)。ラティボル公爵およびコルヴァイ侯ヴィクトル3世・フォン・ラティボル|ヴィクトル3世と、その妻でエッティンゲン=エッティンゲンおよびエッティンゲン=シュピールベルク侯フランツ・アルブレヒトの娘であるエリーザベト(1886年 - 1976年)の間の第4子、長男として生まれた。父が1923年に公爵家の当主になるに伴い、その継嗣としてエルププリンツ|公世子(Erbprinz)の称号で呼ばれた。1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻作戦に、国防軍第1軽機甲師団(1. leichten Division, 1939年10月より第6戦車師団()に改称)第11戦車部隊所属の少尉として参加した。侵攻作戦が始まって間もない9月18日、ウッチ県の小村ポチェハにおいて、LT-35軽戦車3台で走行中に、ポーランド軍のTK (戦車)|TKS軽戦車1台と戦闘になった。TKSに搭乗していたのはヴィエルコポルスカ騎兵師団所属の戦車エース、ロマン・エドムント・オルリク(, 1918年 - 1982年)であり、ヴィクトルの率いる小隊の戦車3台は全て破壊された。ヴィクトルは他の乗員たちとともに全身に火傷を負い、数分後に息絶えた。家督は、親戚のパウリーネ・フォン・メッテルニヒ|メッテルニヒ=ヴィンネブルク侯爵家に養子に入っていた実弟フランツ・アルブレヒト・メッテルニヒ=シャーンドル|フランツ・アルブレヒトが継ぐことになった。

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