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レオポルト

推定知名度1.08%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

レオポルト・フォン・バーデン(Leopold von Baden, 1790年8月29日 - 1852年4月24日)は、第4代バーデン (領邦)|バーデン大公(在位:1830年 - 1852年)。初代バーデン大公カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒとその2度目の妻ルイーゼ・フォン・ガイヤースベルクの長男として、カールスルーエで生まれた。カール・フリードリヒとルイーゼの結婚は貴賤結婚と見なされ、当初2人の間の子供達には大公位継承権が与えられず、ルイーゼの称号ホフベルク伯を授かったのみだった。バーデンに残っても生活するための地位も財産もないレオポルトは、フランス軍に入って士官となる道を選んだ。1817年、日陰の身であったレオポルトに劇的な変化が訪れた。甥で当時の大公カール (バーデン大公)|カールの一人息子アレクサンダーが生後1年で夭折したのである。カールの他にカール・フリードリヒ大公と最初の妃カロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの血を引くのは、カール・フリードリヒの三男でレオポルトの異母兄のルートヴィヒ1世 (バーデン大公)|ルートヴィヒだけであった。ルートヴィヒにも嫡子がなく、バーデン大公家の男系が断絶する恐れが濃厚となった。ルートヴィヒの次に継承権を持つのは、隣国のバイエルン王国|バイエルン王マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世であった。マクシミリアン1世はカールの姉カロリーネ・フォン・バーデン|カロリーネを後妻に迎え王妃としていた。バーデン大公家では、男系の次に年長の女系につらなる相続法を認めていたのである。結果として、バイエルンはバーデンに対し多種多様な大公位継承の申し出を行ってきた。1816年のウィーン会議では、バイエルンはオーストリア帝国と並んで、ヴィッテルスバッハ家へ継承させるようバーデンへ圧力をかけた。家系断絶を回避するため、カールはツェーリンゲン家に大公位を残す手だてを講じた。彼は、父カール・ルートヴィヒ・フォン・バーデン|カール・ルートヴィヒの異母弟たちに大公位継承権を与えることにしたのである。1817年、ホフベルク伯爵夫人の生んだ子供たちに、大公家の正嫡の男子と等しい権利を与える新継承法を公布した。これをもって、レオポルトは異母兄ルートヴィヒに次ぐ大公位継承権者となった。 翌1818年、カールは自由主義的な憲法を公布した。この憲法には、ル

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