画像引用元: upload.wikimedia.orgムルタラ・ムハンマド
ムルタラ・ラマト・ムハンマド(Murtala Ramat Mohammed, 1938年11月8日 - 1976年2月13日)はナイジェリアの軍人・政治家。1975年7月29日、准将の地位にあった時、ヤクブ・ゴウォン軍事政権をクーデターで打倒した。「最高軍事評議会」議長として全権を掌握し、前政権下で横行した腐敗を一掃するべく性急な改革を実施し、ソビエト連邦|ソ連寄り外交を展開した。1976年2月13日、ディムカ中佐のクーデターで殺害されたが、オルシェグン・オバサンジョ参謀総長が鎮圧し、ムハンマドの路線を踏襲した。ムハンマドはゴウォン政権の前のジョンソン・アグイイ=イロンシ政権にも反対していた。イロンシはイボ族|イボ系の軍人によるクーデタを収拾したが、北部出身者はイロンシを疑っていた。北部にはクーデタ気運が醸成されていた。アベオクタ兵営の北部出身兵士が1966年7月29日謀議した。当初は北部の独立案もあったが、経済的困難を官僚やイギリス外交官に指摘され採用しなかった。クーデタはゴウォン中佐をナイジェリア国軍最高司令官として実行された。ムハンマドは自らが指導者になることを望んだが、ゴウォンの方が上官であり、またムハンマドは米英の支持を得られなかった。彼は中佐へ昇級し、司令審査官 (Inspector of Signals) に任命された。ビアフラ戦争中ムハンマドはナイジェリア国軍の第2師団の総司令官を務めた。第2師団はビアフラ軍に反攻し中西部州 (ナイジェリア)|中西部州を奪還しニジェール川を渡って、ンスッカからエヌグを行軍する第1師団と連携した。イボ人の住む中西部州の国境の町アサバでムハンマドは妊婦がレイプされ殺害された事件のために非難された。ムハンマドはこれを否認し謝罪することはなかった。またニジェール川渡河の際にビアフラ軍が破壊した橋の再建を待ったが、ラゴスの司令部が彼の軍功を妨げようとしていると考え、渡渉を始めた。結果として渡河の備えのない部隊は流れにのまれて対岸のビアフラ軍から標的とされた。ムハンマドは多くの犠牲を伴って2度撤退し、アバガナでも同様の経験をした。燃料タンクがビアフラ軍の爆撃で損傷し、ほぼ全ての輸送用燃料が流出した。ムハンマドは司令部から懲戒を受け、司令官から外されイギリスへの長期休暇を与えられた。ムハンマドはビアフラ戦争終結後帰国すると司令審査官の地位に戻され、これが軍での最後の任務
