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ボードゥアン1世

推定知名度1.34%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ボードゥアン1世(Baudouin I, 1065年頃 - 1118年4月2日)は、第1回十字軍の指導者の一人。初代エデッサ伯国|エデッサ伯となり、後に初代エルサレム王国|エルサレムエルサレム国王一覧|王(在位:1100年 - 1118年)となった。ボードゥアンはブローニュ=シュル=メール|ブローニュ伯ウスタシュ2世と妃イド・ド・ブローニュの三男で、僧籍に入る教育を受けていたが途中で還俗し、次兄のロレーヌ公|下ロートリンゲン公ゴドフロワ・ド・ブイヨン|ゴドフロワの下でヴェルダン伯となる。第1回十字軍時には兄のウスタシュ3世、ゴドフロワ、ユーグ、従兄弟のボードゥアン2世 (エルサレム王)|ボードゥアン・ド・ブールと共に参加した。ハンガリー王国|ハンガリーでは、部隊の安全な通過のためにボードゥアンが人質としてハンガリー王の元に留められた。コンスタンチノープルでは、逆に東ローマ皇帝の息子(後のヨハネス2世コムネノス)を人質として預かったときに、ボードゥアンがその対応を行った。東ローマ側から十字軍を記録した皇女アンナ・コムネナの手記によると、「配下の兵士が皇帝の玉座に対して無礼な働きを行ったとき、それを咎めた」とされ、礼儀と規律に厳しかったことがうかがえる。小アジアで他の十字軍から分かれ、同様に領土を欲するノルマン人のタンクレード (ガリラヤ公)|タンクレッド(ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボヘモンの甥、後にアンティオキア公国摂政)と共にキリキアへ向かったが、途中でタンクレッドと争うようになり、タンクレッドはアンティオキアに戻った。一方、ボードゥアンはエデッサの領主ソロスに誘われて、その後継者となり、まもなくソロスが暴動で殺されると替わってエデッサを支配した(エデッサ伯国参照)。ボードゥアンはキリキア・アルメニア王国|アルメニア人のアルダと結婚したが、これ以降しばしば行われたフランク系十字軍国家の貴族とアルメニア人との婚姻の先例となった。1100年に「聖墳墓の守護者」だった兄のゴドフロワが死んだ時、ボードゥアンはエデッサ伯国をボードゥアン・ド・ブールに譲り、エルサレムに入ってエルサレム王ボードゥアン1世となった。エルサレム総司教だったダゴベルトは、エルサレムを教皇領とすることを望み、これに反対したが、エルサレムではなくベツレヘムで戴冠することで妥協した。1101年の十字軍ではラマラで大敗したが、その後アッコン、ラマ

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