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プトレマイオス8世

推定知名度0.87%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

プトレマイオス8世エウエルゲテス2世(Πτολεμαῖος Εὐεργέτης 紀元前182年ごろ – 紀元前116年6月26日)はその肥満からフュスコン(Φύσκων 「太鼓腹」の意)ともあだ名されたプトレマイオス朝エジプトの王。紀元前170年にアンティオコス4世エピファネスがエジプトに侵攻し、プトレマイオス6世|プトレマイオス6世フィロメトルを捕らえてシリアの傀儡としたため、それに対抗してアレキサンドリアがエウエルゲテスを王として担ぎ上げてプトレマイオス8世の治世が始まった。兄であるフィロメトルはメンフィス (エジプト)|メンフィス以南を、弟であるエウエルゲテスはアレキサンドリアを押さえてデルタを支配し、同時に2人の王がエジプトに君臨し争う事態になる。エジプト民はエウエルゲテスを支持したが、ローマの元老院はアンティオコス4世の後見にまわった。しかしプトレマイオス6世は逆に弟とローマと結んで権力を握ろうとしたため、アンティオコス4世はメンフィスとアレキサンドリアへ兵を出して都に迫った。しかし第3次マケドニア戦争に勝利したことで両国の調停にはいる余裕が生まれていたローマからカイウス・ポピリウス・ラエナスが使者として派遣された。アンティオコス4世にはもはや地中海で対抗できる勢力のなくなったローマの仲介に応じるほかなく、シリアの兵が引いた後のエジプトはプトレマイオス6世に任され、エウエルゲテスもキレナイカを得た。しかしこれ以降エジプトはローマの影響を直接的に受けるようになる。プトレマイオス6世は30年近くも安定した政治を行ったが、紀元前145年にシリアで敗れ戦死すると、その配下だった傭兵たちは勝者のほうへと流れたため、エウエルゲテスは軍を率いてエジプトに戻り先王の妻であったクレオパトラ2世とその子プトレマイオス7世を手元に置いた。さらに母子の命を保証するという条件のもとクレオパトラ2世と結婚し、同時にその娘である後のクレオパトラ3世をも娶っている。2人の間に子が生まれると王位継承者でもあったプトレマイオス7世を殺し、ローマの支援もうけてエジプトを掌握した。しかし母娘と同時に結婚したことや、相次ぐ戦争と重税とで人気を落としたプトレマイオス8世は民衆から支持されず、暴動さえ起こって叛徒が宮殿を囲むこともあった。さらに宮廷内ではプトレマイオス8世とクレオパトラ2世、3世の権力争いが続いた。ついにクレオパトラ2世がアレクサン

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