フランティシェク・アントニーン・レスレルの画像画像引用元: www.aria-cd.com

フランティシェク・アントニーン・レスレル

推定知名度0.32%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

アントニオ・ロセッティ(Antonio Rosetti, 1750年 - 1792年6月30日)、18世紀ボヘミアの作曲家・コントラバス奏者。長らくフランチシェク・アントニーン・レスレル Frantisek Antonin Rössler と呼ばれていた。1773年にイタリア風の「アントニオ・ロセッティ(ロゼッティ)」(Antonio Rosetti)に改めた、とされてきたがその確証はない。ドイツ語名のフランツ・アントン・レスラー(Franz Anton Rösler)としても知られる。しかし、ロセッティ自身は一度たりともフランティシェク・アントニーン、あるいはフランツ・アントンと名乗ったことはなく、現在では、アントニオ・ロゼッティという名が通用している。本稿では、以下ロセッティと記す。ボヘミア北部のリトムニェジーツェ Litoměřice(ドイツ名:ライトメリッツ Leitmeritz 出身。イエズス会の神学校で早期の音楽教育を受けたと見做されている。その後の彼の足取りははっきりとはわかっていないが、1770年代の初めに、ロシアのオルロフ伯爵連隊の音楽家として仕えていたといわれる。なお、このオルロフ伯爵とは、おそらく1768年以来ロシア艦隊の提督であったアレクセイ・グリゴリェーヴチ・オルロフ伯爵を指すものと思われる。 1773年、南ドイツのシュヴァーヴェン地方のエッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯爵の宮廷楽団にコントラバス奏者として加わり、後に作曲活動も行う。1777年にロジーナ・ネーアと結婚し3児をもうける。1781年に休暇を与えられて5ヵ月をパリで過ごす。コンセール・スピリチュエルをはじめ、優れた楽団の多くがロセッティの作品を演奏した。1782年に6つの交響曲が出版された。ヴァラーシュタインに戻った後、ドイツ語圏はもとよりフランスなどでも卓越した作曲家として認められるようになった。1785年、同郷でヴァラーシュタイン宮廷楽団の楽長ヨーゼフ・レイハ Josef Reicha (1752-1795) がボン宮廷楽長に招かれヴァラーシュタインを去ると、その後任となり同宮廷楽団の活動に大きく貢献した。1789年にメクレンブルク=シュヴェーリン公の宮廷楽長に就任、シュヴェリーン近郊のルードヴィヒスルストに移住。モーツァルトの死から半年後に他界した。ロセッティは多作家であり、40数曲の交響曲や協奏曲、声楽曲を残した。こ

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