画像引用元: upload.wikimedia.orgフィリップ・フォン・デア・プファルツ
フィリップ・フォン・デア・プファルツ(Philipp von der Pfalz, 1627年9月16日 デン・ハーグ - 1650年12月16日 ルテル)は、ドイツのプファルツ=ジンメルン家の公子。ライン宮中伯|プファルツ選帝侯フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世とその妻でイングランド王国|イングランド王・スコットランド王国|スコットランド王ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世の娘であるエリザベス・ステュアートの間の第10子、七男。当時、プファルツ選帝侯家は父がボヘミア王国|ボヘミアの対立王に選ばれたために三十年戦争に巻き込まれて流浪の身となっており、フィリップは両親の亡命先であるホラント州のデン・ハーグで生を享けた。フィリップは幼少期にフランス王国|フランスのパリ宮廷に引き取られて教育されたが、後に長兄カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール・ルートヴィヒの意向によりデン・ハーグの母の元に連れ戻されている。カール・ルートヴィヒはイングランド内戦中、叔父のチャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世麾下の王党派(騎士党)ではなく議会派(円頂党)を支持しており、議会に援軍としてヴェネツィア共和国の軍隊を招聘するよう勧告する際、末弟のフィリップを議会への密使として遣わしている。1646年6月21日、フィリップはデン・ハーグの市街地で母の寵臣レピネー侯爵(Marquis de l'Epinay)を殺害し、オランダに居られなくなって国外に逃れた。母エリザベスはフィリップを決して許さず、一言も口を利かず、二度と彼を息子として認めようとしなかった。母に勘当されたフィリップはロレーヌ公国の軍隊に入り、騎兵連隊の連隊長となった。1650年の年末、フロンドの乱に従叔父のテュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ元帥に従って参加していた時に、ルテルの戦い(Bataille de Rethel)で戦死した。遺骸はスダンまで運ばれ、サン=シャルル教区教会(プロテスタントの教会)内にある、テュレンヌの実家スダン公国|ブイヨン公爵家の墓所に葬られた。
