画像引用元: upload.wikimedia.orgハーデクヌーズ
ハーデクヌーズ(Hardeknud, 1018年/1019年 - 1042年6月8日)は、デンマーク(在位:1035年 - 1042年)およびイングランド王国|イングランド(在位:1035年 - 1037年、1040年–1042年)の王。クヌーズ1世 (デンマーク王)|クヌート大王とノルマンディー公の娘エマ・オブ・ノーマンディー|エマの間のただ一人の息子である。クヌーズ3世の名で1035年にデンマークを父から継いだが、イングランドでの地位を確保するためにそこへ渡るのを、ノルウェー王マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世が妨げたために争いとなった。結果、イングランドの支配の代わりにハーデクヌーズの非嫡出の腹違いの兄ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルドを摂政とすることに合意した。ハロルドは1037年自らイングランドの王となった―ハーデクヌーズは「デンマークに長く居過ぎたために見捨てられた」のだった。ハーデクヌーズがスカンディナヴィアでこのような窮地に陥った後、マグヌスと1038年または1039年に、どちらか王位継承者でない方が死に、そうでない方を後継者とする合意をして、ハーデクヌーズはハロルドを退位させるべくイングランド侵攻の準備をして、1039年に追放された母のいるフランドルのブルッヘへ到着した。しかし1040年3月、侵攻が開始される前にハロルドは死んでしまった。『アングロサクソン年代記|アングロ=サクソン年代記』によれば、ハーデクヌーズは「夏至の前の7日間」(6月17日)に62隻の艦隊と共にサンドウィッチ (イングランド)|サンドウィッチに上陸した。ハロルドが生きている間に復讐を果たせなかったため、ハーデクヌーズは「ハロルドの死体を引き摺って沼へ投げ入れた」。ハーデクヌーズは厳しく、非常に不評な支配者であり、海軍への給料のために激しい増税を行い、そのために1041年にはウスターで反乱が起きた。この反乱を鎮圧するのにウスターはほぼ壊滅した。税金を下げるよう地元の伯爵を説得するためにコヴェントリーの通りを馬に乗って走ったレディ・ゴディバはハーデクヌーズの治世の話であるといわれる。ハーデクヌーズは後に懺悔王とよばれる異父兄エドワード懺悔王|エドワード(母エマとエゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド無思慮王の息子)をノルマンディーへの追放から連れ戻し、副支配者そして後継ぎにした(『アングロ=サクソ
