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能勢頼一

推定知名度19.61%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

能勢 頼一(のせ よりかず、元禄3年(1690年) - 宝暦5年5月11日(1755年6月20日) )は、江戸時代中前期の旗本で、江戸北町奉行となった人物。能勢頼雄の子。通称、甚四郎。官位は従五位下肥後守。室は竹田政就の娘。子女は菅沼武勝室、能勢一英、ほかに女子ひとり。父の能勢頼雄が没し、元禄3年12月に1歳で跡目相続し小普請となった。宝永4年(1707年)11月、小性組番士、宝永6年12月に小納戸、享保12年(1727年)6月、小十人頭を歴任し、同12月、布衣を着することを許された。宝永14年11月、小性組組頭に昇進し、宝永20年10月、目付となった。寛保元年には、500石を加増されそれまでの蔵米100俵も知行地に改められ、武蔵国埼玉郡、上野国邑楽郡内600石を知行することとなった。延享元年(1744年)6月には町奉行にまで昇進し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。宝暦3年(1753年)3月、西ノ丸旗奉行となった。宝暦4年11月、職を辞し寄合となり、宝暦5年(1755)5月に66歳で没した。

過去の推移