橘 公業(たちばな の きみなり、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の橘氏の武将。公成とも表記される。橘公長の次男であるため通称を橘次といった。法名を公蓮。弓の名手であったと伝えられている。兄は橘公忠|公忠。小鹿島公業とも。元々平知盛の家人であった父に従い、治承四年(1180年)に平家を見限って源氏の麾下に入る。奥州合戦の論功で出羽国男鹿半島|小鹿島(現秋田県男鹿市)の地頭に補された。文治5年(1189年)に起きた大河兼任の乱では敵前逃亡するなど一時は源頼朝の不興を買うが、結果として援軍を待ってから敵に当たった行為が適切であったとの評価を得、乱後......
橘 公業(たちばな の きみなり、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の橘氏の武将。公成とも表記される。橘公長の次男であるため通称を橘次といった。法名を公蓮。弓の名手であったと伝えられている。兄は橘公忠|公忠。小鹿島公業とも。元々平知盛の家人であった父に従い、治承四年(1180年)に平家を見限って源氏の麾下に入る。奥州合戦の論功で出羽国男鹿半島|小鹿島(現秋田県男鹿市)の......