本多 忠明(ほんだ ただあき、天保4年4月23日(1833年6月10日) - 明治34年(1901年)12月17日)は、播磨国山崎藩の第9代(最後)の藩主。政信系本多家10代。第8代藩主・本多忠鄰の次男。官位は従五位下、正四位、肥前守。幼名は鑑三郎。明治2年(1869年)正月晦日、父の隠居で家督を継ぐ。同年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。同年9月、東京に移った。明治17年(1884年)、子爵に列せられた。明治34年(1901年)12月17日、69歳で死去した。法号は実想院殿真誉義山大居士。墓所は兵庫県宍粟市山崎町上......
本多 忠明(ほんだ ただあき、天保4年4月23日(1833年6月10日) - 明治34年(1901年)12月17日)は、播磨国山崎藩の第9代(最後)の藩主。政信系本多家10代。第8代藩主・本多忠鄰の次男。官位は従五位下、正四位、肥前守。幼名は鑑三郎。明治2年(1869年)正月晦日、父の隠居で家督を継ぐ。同年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。......