盛庸(せいよう、生没年不詳)は、陜西の人、明初の重臣。1399年(建文元年)に、朱棣による靖難の変が発生すると、南京政府の建文帝の側にあり、耿炳文の指揮下で朱棣の軍と交戦。耿炳文更迭後に李景隆が白溝河の戦いで敗戦し逃亡した後にも、山東参政であった鉄鉉の指揮下の将の一人として陳暉らと共に済南城の防衛に参加し、夜襲を仕掛けて燕軍を打ち破るなどの戦果を挙げ、朱棣から城を守り抜いた。済南城攻防戦が三ヶ月を超えたことにより、朱棣が軍を返す際に、鉄鉉の指揮下で追撃軍の一人として徳州奪回に参戦した。この後の9月、徳州奪回の功績を受けて鉄鉉が兵部尚書に昇進した際に、盛庸は......
盛庸(せいよう、生没年不詳)は、陜西の人、明初の重臣。1399年(建文元年)に、朱棣による靖難の変が発生すると、南京政府の建文帝の側にあり、耿炳文の指揮下で朱棣の軍と交戦。耿炳文更迭後に李景隆が白溝河の戦いで敗戦し逃亡した後にも、山東参政であった鉄鉉の指揮下の将の一人として陳暉らと共に済南城の防衛に参加し、夜襲を仕掛けて燕軍を打ち破るなどの戦果を挙げ、朱棣から城を守り抜いた。済南......