武節城(ぶせつじょう)は三河国設楽郡(現在の愛知県豊田市武節町)にあった城。別名・地伏城。名倉川沿いに築かれた平山城で、永正年間に田峯城の菅沼定信が築いたとされる。弘治2年(1556年)に武田信玄の家臣である信濃国伊那郡の下条信氏が攻め込んだ。続いて、元亀2年(1571年)に発生した信玄の西上作戦によって定信の子孫である田峯菅沼氏の菅沼定忠が武田氏に降伏すると、武節城も武田氏の城となった。だが、信玄の没後に田峯菅沼氏が属する山家三方衆は武田氏側と徳川氏側に分裂し、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いの一因になった。長篠の戦いに破れた武田勝頼は徳川氏......
武節城(ぶせつじょう)は三河国設楽郡(現在の愛知県豊田市武節町)にあった城。別名・地伏城。名倉川沿いに築かれた平山城で、永正年間に田峯城の菅沼定信が築いたとされる。弘治2年(1556年)に武田信玄の家臣である信濃国伊那郡の下条信氏が攻め込んだ。続いて、元亀2年(1571年)に発生した信玄の西上作戦によって定信の子孫である田峯菅沼氏の菅沼定忠が武田氏に降伏すると、武節城も武田氏の城......