李玄道(り げんどう、560年 - 629年)は、中国の唐の文学者、政治家。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。李行之の子として生まれた。本貫は隴西だが、代々鄭州に居住していた。玄道は隋に仕えて斉王府の属官となった。李密が洛口に拠ると、召されてその下で記室をつとめた。李密が敗れ、王世充に捕らえられたとき、人々は恐れて眠ることもできなかったところ、ひとり玄道が「死生は運命だ。心配したところで仕方があるか」と言って寝てしまった。王世充に引見されると、態度が堂々としていたので、縛を解かれて、著作佐郎として任用された。東都が唐に平定されると、秦王府主簿に任用され、......
李玄道(り げんどう、560年 - 629年)は、中国の唐の文学者、政治家。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。李行之の子として生まれた。本貫は隴西だが、代々鄭州に居住していた。玄道は隋に仕えて斉王府の属官となった。李密が洛口に拠ると、召されてその下で記室をつとめた。李密が敗れ、王世充に捕らえられたとき、人々は恐れて眠ることもできなかったところ、ひとり玄道が「死生は運命だ。心配し......