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李リン

推定知名度0.43%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

李璘(り りん、? - 757年)は、唐の皇族。第9代皇帝である玄宗の16子で第10代皇帝粛宗の異母弟。母は郭順義。生母は幼時に死去したため、異母兄の粛宗に養育された。容貌が醜く斜視だったが、聡明で学問好きで、開元13年(741年)、永王に封じられる。宮中で育ったため、人事に疎かった。安史の乱が起こると、天宝15載(757年)、玄宗に命じられ、江南・山南・嶺南などの4道節度使兼江陵大都督に任命され、江陵に赴任する。江陵には、江南からの租賦が充満しており、数万の募兵を集め、永王は独占し、半独立した政権を築く。さらに、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗、蔡垧の進言に従い、江南に自立し、唐王朝から次第に離脱を図るようになった。霊武にいた兄の粛宗は、すでに即位しており、この報告を聞き、永王に勅使を派遣して父の玄宗に謁見することを命じたが、永王は勅命を聞かなかった。永王の子である襄城王偒が勇敢で力があったため、軍を握った。襄城王偒は反乱を考え、金陵を奪うように勧めたと伝えられる。永王は5,000人の兵を率い、季廣琛、渾惟明、高仙琦を将に任じた。永王の長史であった李峴は、病気を理由として辞職し、粛宗のもとに赴いた。粛宗は、高適を、彼とともに永王の件を謀らせる。高適は情勢を分析し、永王が必ず敗北すると語った。粛宗は、高適を淮南節度使、来填を淮南西道節度使に任命し、江東節度使である韋陟ともに対処を命じる。独断で兵を率いて、長江に沿って東に赴いた永王を呉郡太守兼江南東路采訪使である李希言が書面でとがめると、永王は渾惟明を派遣して、李希言のいる呉郡を攻撃させる。また、武将の季廣琛に命じて、広陵を攻撃した。渾惟明は、李希言に命じられ丹陽を守った元景曜と閻敬之を破る。閻敬之は戦死し、元景曜は降伏した。季廣琛も広陵長史・淮南采訪使の李成式に命じられて防戦を行った李承慶を降伏させる。高適、来填、韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。757年、肅宗は宦官の啖廷瑤を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。そのため、季廣琛、渾惟明、馮季康、康謙は逃亡してしまい、永王は、制止することはできなかった。李成式の軍は篝火も盛大に並べたため、永王の軍は篝火を焚く。永王はこれを見て、唐軍が河を渡ったと思い、家族や配下とともに逃亡する。夜

過去の推移