広場 重綱(ひろば しげつな、生没年不詳)は、安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣で鷹師。通称は休蔵。父は広場三河守。父の広場三河守は豊臣秀吉の旗本で、重綱はその次男として誕生した。天正15年(1587年)に島津氏が豊臣氏に降伏し、その翌年に上洛した島津義弘が豊臣秀長と親しくなると、天正17年(1589年)義弘が秀長に重綱を所望する。それにより重綱は義弘の家臣となり、また、その鷹師ともなった。その後は義弘に従い、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍し、薩摩国へ帰国後は義弘の膝元である加治木(現・鹿児島県姶良郡加治木)へ移り住んだ。後年は姓を鈴木に改めている。
広場 重綱(ひろば しげつな、生没年不詳)は、安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣で鷹師。通称は休蔵。父は広場三河守。父の広場三河守は豊臣秀吉の旗本で、重綱はその次男として誕生した。天正15年(1587年)に島津氏が豊臣氏に降伏し、その翌年に上洛した島津義弘が豊臣秀長と親しくなると、天正17年(1589年)義弘が秀長に重綱を所望する。それにより重綱は義弘の家臣となり、また、その鷹師と......