太田 輝資(おおた てるすけ、?-慶長8年4月17日(1603年5月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏の家臣。太田資高の子。受領名は右衛門佐、後に備中守。初め、兄の太田康資とともに武蔵国江戸城にいたが、兄が同族の岩付城主太田資正とともに里見氏に通じると、これに従わずに資正の嫡男・太田氏資と結んでこれを放逐した。以後、氏資の配下となるが、氏資が三船山合戦にて戦死した後は北条氏からの養子である太田源五郎・氏房兄弟に仕えた。右衛門佐は北条氏光と重なるために官途名を太田氏ゆかりの備中守に改めたが、備中守は北条氏ゆかりの名前で同氏五代の家中......
太田 輝資(おおた てるすけ、?-慶長8年4月17日(1603年5月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏の家臣。太田資高の子。受領名は右衛門佐、後に備中守。初め、兄の太田康資とともに武蔵国江戸城にいたが、兄が同族の岩付城主太田資正とともに里見氏に通じると、これに従わずに資正の嫡男・太田氏資と結んでこれを放逐した。以後、氏資の配下となるが、氏資が三船山合戦に......