太田 資武(おおた すけたけ、元亀元年(1570年)-寛永20年11月11日(1643年12月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・福井藩家臣。太田資正の三男。初名・景資。源三郎。五郎左衛門尉。安房守。子に太田資信。母は法名を「月洲大瓊大姉」といい、伝承では小田氏家臣の八代将監の娘で常陸国片野城主であった上曽源三郎の後室になっていたのを佐竹義重が片野城を攻略して太田資正を入れた際に一緒に与えたとされるが確証はない。資武が誕生した時には、父・資正は長男の氏資に本拠地の岩付城を追われて常陸国の佐竹氏に寄寓して片野城に入っており、氏資も三船山......
太田 資武(おおた すけたけ、元亀元年(1570年)-寛永20年11月11日(1643年12月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・福井藩家臣。太田資正の三男。初名・景資。源三郎。五郎左衛門尉。安房守。子に太田資信。母は法名を「月洲大瓊大姉」といい、伝承では小田氏家臣の八代将監の娘で常陸国片野城主であった上曽源三郎の後室になっていたのを佐竹義重が片野城を攻略し......