レオポルト・アントニーン・コジェルフの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

レオポルト・アントニーン・コジェルフ

推定知名度0.57%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

レオポルト・アントニーン・コジェルフ(Leopold Antonín Koželuh, *1747年6月26日 プラハ近郊ヴェルヴァリ - †1818年5月7日 ウィーン)は、ボヘミア出身のウィーンの作曲家・音楽教師。生前はドイツ語名レオポルト・アントン・コツェルフ(Leopold Anton Kozeluch)として有名だった。父親アントン・バルトロメウスは教師であり、従兄ヤン・コジェルフも作曲家、娘カタリナはピアニストであった。地元ヴェルヴァリでアントン・クビックに最初の音楽教育を受け、後に従兄ヤンに師事。プラハのギムナジウムに学んだ後、法学を修めてから音楽に再び専念する。1771年にプラハの国立劇場において、バレエ音楽によって作曲家デビューを果たす。その後7年間にプラハ国立劇場のために約25曲を作曲。1778年にウィーンに上京し、一時期ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの薫陶を受ける。短期間のうちに名ピアニストへと腕を上げ、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイルの後任として、オーストリア帝室音楽教師に就任。1781年には、ザルツブルク大司教の専属オルガニストの職を断っている。1784年からは楽譜出版業も手掛け、モーツァルトも彼の出版社から作品を出版した。モーツァルトの死を受けて1792年に帝室宮廷楽長と宮廷作曲家を兼務(俸給は宮廷に嫌われたモーツァルト(700フローリン)の倍以上の1700フローリンだった)。特別な弟子は自宅で個人指導した。コジェルフはすでに存命中からヨーロッパ全土で評価を受けていた。しかし最晩年になると多くの批評家から、書き飛ばしているという非難の声が次第に高くなっていった。モーツァルトやベートーヴェンから受けた歯に衣着せぬ酷評は、今日になるまで忘れられていない。とはいえ、ベートーヴェン、シューベルトへの影響ははかり知れない。事実、彼の数作品は長らくベートーベンのものと誤認されていたほどである。コジェルフは熱心なフリーメイソン会士であり、ウィーンのいくつかのロッジに参加している。

過去の推移