ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン

推定知名度0.12%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン(Guillaume II de Villehardouin, 1211年頃 - 1278年5月1日)はギリシア生まれのフランス人、第4代アカイア公国|アカイア公(1246年 - 1278年)。ギリシア名グリエルモス(Γουλιέλμος)。第2代ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンの次子、第3代ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアンの弟。母イザベルがギリシアに移住した後、1211年頃にカラマタ城で生まれた。フランス語に加えてギリシア語も自由に操ったと言われている。1248年、1年近い包囲戦の後、半島最後の拠点であった要塞都市モネンヴァシアを降伏開城させ、半島全土の征服を一応達成する。1249年、タイゲトス山脈に籠もって抵抗を続けるスラヴ人部族・メリング族を牽制すべく山麓の丘にミストラ|ミストラス城を、また同じ頃、支配下に入ったマニ地方に「大マニ城」を建設して反乱に備えた。こうした相次ぐ築城は、半島全土の征服と共にアカイア公国の絶頂期を飾る事業であった。ギヨームはこうした居城を巡回して支配を強めると同時に、平地に建設された首都アンドルヴィル(アンドラヴィダ)で宮廷生活を営み、フランス文化がこの地に花咲いた。ギヨームはフランス貴族ナルジョ・ド・トゥーシの娘(個人名不明)、イタリア人のカリンターナ・ダッレ・カルチェリと2度にわたって結婚したが、2度とも先立たれていた。1258年、イピロス専制公ミハイル2世ドゥカスの娘アンナと結婚し、アカイア公国はニカイア帝国|ニケア帝国の躍進に対しエピロス専制侯国|イピロス専制公国、シチリア王国と同盟して反ニケア包囲網を敷く事になった。この危険な同盟が、ギヨームとアカイア公国を繁栄の絶頂から転落へと導く事になる。1259年、ペラゴニアに集結した反ニケア同盟軍であったが、ギヨームとミハイル2世の庶子ヨアニス1世ドゥカスとが対立し、軍団の足並みに乱れが生ずる。この対立の原因は、自分の高貴な生まれを誇るギヨームが、ヨアニスの出自を嘲笑したからであると伝えられている。ギヨームはその軽率さに対し、高い代償を支払わされる事となった。ヨアニス・ドゥカスは早々に軍を離脱させ、残存する同盟軍はペラゴニアの戦いに於いてニケア皇帝ミハイル8世パレオロゴスの弟、ヨアニス・パレオロゴス副帝(ケサル)指揮下のニケア軍に惨敗を喫してしまう。ギヨームは辛くも戦場を離脱したが、逃

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