アルブレヒト・フォン・エスターライヒの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

アルブレヒト・フォン・エスターライヒ

推定知名度0.43%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

アルブレヒト・フォン・エスターライヒまたはアルブレヒト7世・フォン・エスターライヒ(Albrecht VII. von Österreich, 1559年11月13日 - 1621年7月15日)は、南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント君主。妃イサベル・クララ・エウヘニアと共に共同統治を行った。のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世とスペイン王女マリア・デ・アブスブルゴ|マリアの五男として、ヴィーナー・ノイシュタットで誕生した。幼いうちにスペイン宮廷へ送られて、11歳まで叔父フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世に教育され、事実上聖職者になるべく定められていた。18歳でローマにあるサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂()の枢機卿に任命された。フェリペは甥をトレド大司教にしようともくろんでいたが、現職が長寿のためその機会はなかなかやってこなかった。アルブレヒトは教会内で責任ある地位につくことができず、ポルトガル王国|ポルトガル併合後の初代副王となった。1588年には無敵艦隊|アルマダを組織してリスボンの戦いでイングランド軍を撃破した。1593年にマドリードへ呼び戻され、スペイン絶対王政の指導者となっていった。1595年、三兄エルンスト・フォン・エスターライヒ (1553-1595)|エルンストが死去したため、ネーデルラント総督の後継者としてブリュッセルへ入城した。アルブレヒトの最初の課題は、低地諸国でのスペインの軍事的優位性を建て直すことにあった。当時、低地諸国ではネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国、イングランド王国|イングランド、フランス王国|フランスが入り乱れた状態であった。1599年、既に還俗していたアルブレヒトは従妹にあたるイサベルと結婚した。フェリペ2世はイサベルがアルブレヒトと共同君主であることを宣言した。1604年にイングランドとロンドン条約を締結後、スペイン領ネーデルラントは情勢が安定し、アルブレヒト夫妻は芸術の後援者として著名となった。ピーテル・パウル・ルーベンスはブリュッセルにある彼らの宮廷の専属画家であった。

過去の推移